モン族のパーティーが凄かった
2017/06/11
匠です
皆さんは、「モン族」と呼ばれる人々がいるのをご存知でしょうか。
人種や宗教の問題から、一概にまとめて系統化する事は難しいとは思いますが、今回僕が誘われたパーティーの人たちは「自称モン族」であったため、今回は「モン族のパーティー」と呼びます。
「モン」という響きからも、アジアの雰囲気を感じるとは思いますが、Wikipediaでは彼らのことは以下の様に説明されています。
モン族 とは中国の雲貴高原、ベトナム、ラオス、タイの山岳地帯にすむ民族集団。ミャオ族の下位グループである。
モン族の「モン」は自称であり、モン語で「(自由な)人」・「我々」・「自由」といった意味がある。「白モン」「花モン」など民族衣装の色調に基づいて類別された呼称は他の民族が付けた他称であり、タイでの呼称「メオ(Meo)」はモン族からは蔑称として捉えられている。
アニミズム・シャーマニズムを信仰し、クロスステッチを多用した民族衣装が著名である。モン族全体で漢族に似た30ほどの姓があり、1つの村は1から10種類の姓の父系出自集団によって構成される。家族形態は核家族または既婚の息子家族が同居する拡大家族であり、一夫多妻婚やレビラト婚も存在する。
モン族の本来の生業は移動開拓する焼畑農業であり、海抜千数百メートル程度の山地を開墾し、地力が衰えると放棄し移動した。主な作物は陸稲やトウモロコシだが、かつてはアヘンケシの栽培で有名となった。 近年は、芥子栽培の禁止と焼畑の耕作制限によって常畑農耕による定住生活に切り替わりつつある。
面白い、、
国籍の定まっていない系統。
ある情報サイトでは彼らのことを「国境なき民族」と呼んでいました。
米国の中には、この様に肌の色や国籍を超え細かく分類下されている例が多くある様です。流石「人種のるつぼ」と呼ばれる開拓民の国と呼ばれるだけあります。
米国に居住するモン族系の人の多くはベトナム戦争が深く関係しているようです。
アメリカがベトナム戦争に敗れると、モン族は見捨てられ行き場を失った。彼らの多くはベトナム軍、ラオスの共産勢力、パテート・ラーオの三者による掃討作戦で返り討ちに遭い、女、子供も含めて虐殺された。数十万のモン族が政治亡命を求めタイに逃げた。これらの難民数千人が1970年代後半から欧米諸国、主に米国、またオーストラリア、フランス、フランス領ギアナ、カナダ、および南米に移住している。その他は国連の本国送還プログラムのもと、ラオスに戻った。ベトナムとカンボジア内戦をめぐって対立したタイや、中越戦争でベトナムやラオスと敵対した中華人民共和国によって支援されたモン族による反政府活動も起きた。
ラオス国内ではゲリラ化したモン族による抵抗闘争や、山賊化したモン族による犯罪が散発的につづき、この問題がいまだに解決していないことを示している。
闘争や犯罪など、未だに解決していないということを考えると、血の足跡を残す戦争や内戦は本当に残酷で胸が苦しめられます。
そんな悲しい過去に対し、その夜はとても楽しく賑わい、笑顔に溢れた夜となりました。
今回のパーティの主題は「TJの誕生日」
先日マカティオのビーチで知り合った彼の誕生日パーティだったようです。
開催場所は彼の実家のあるサルタンと呼ばれる地域、僕の住む港町エバレットから車で東に2,30分向かった内陸部に在ります。
彼の家に近づくと、爆音と振動が体に伝わり流れてきた。
SOSの狼煙の様に既に野外グリルからは煙が立ち上がり、飲み食いを始めている様だ。
僕らも着くや否や、米国の格安ビールBudlight の瓶/缶を渡され、飲み始める。
いやあ、それにしてもよく飲む、食べる。そして踊る。
勢いが止まる気配はない。
家の中では人が倒れている。
「外で車のカギを落とした」と1時間弱うろうろしている者もいる。
その中に混ざり、泥酔した人々を水鉄砲で狙うTJの息子たち。
狂喜さえ感じた。
そんな大きな勢いの波に圧倒されながらも、
自身も大いに楽しんでいたのは事実。
日本では毎週末、流し込む様に飲み食いし翌日体に残るというのは異様な文化の一つであるのは確か。
圧倒されつつも、どこか懐かしい感覚が体を刺激しました。
最終的には僕も輪に入ることが出来、とても楽しい夜となりました。
当初はあまり気にならなかったけれど
彼らが彼ら自身を「モン族」と呼ぶことには
何かしらの敬意や祖先を想う気持ちがあるのだろう。
元来のモン族の様にシャーマニズムを信仰していたり、焼畑農業で開拓しながら土地を移動する民族の形は彼らには見られないけれど、
彼らの間にある大きな絆を感じることが出来、
僕も自身のアイデンティティについてもう少し考えてみようと思う契機となりました。
日中、空に架かった虹はとても綺麗でした。